• 竹槍

支配欲と包容力

最終更新: 2020年12月4日

小学校に入る前くらいの年齢の小さな子供をさして、

「今が一番カワイイときだもんねぇ」

みたいな言い方はよく見かけるものだが、正直これには相当な違和感がある。


ひとつには、17-8歳くらい、高校を出るくらいまでは、

金銭的にはいわずもがな、精神的にも親の庇護が必要だと思うのだが、

5歳未満が一番カワイイということになると

それ以降のまだまだ親の庇護が必要な年齢の子に対して

「昔のほうが可愛かった」という主観を突きつけることになる。

それはあまりに教育的配慮に欠ける発言なのではないかと思う点。


ふたつには、自我も知能も未発達な状態が果たしてカワイイのか?という点。

それはじぶんの自我と衝突することもあまりなく、

衝突したとしても大人の圧倒的な知能・知識量で以て完封できるからか?

嘘や取り繕いをするだけの知能も知識もないことを純真と言うのか?

支配下を逸脱するのは、一人前になった証として歓迎すべきことのはずなのに、

成長した我が子よりも未熟な我が子のほうが可愛かったというのだろうか?

という点で、違和感のニオイはこちらのほうが強い。


どうもこの言葉からは、

相手の成長を願っているように見せかけて

本当のところは支配・所有していたい

おのれの上位性とか優等を保っていたい

といった

独善的なニオイを嗅ぎ取ってしまうのである。


ところが、「今が一番カワイイ」類のことが言える人というのは

子供やお年寄りのような

知能の未熟さ、鈍さが露呈する行動を

面白がったり可愛がったりできる包容力を持っている。

対して[竹槍]はどうかというと、

「知能の未熟さ、鈍さが露呈する」手合いにはイライラするだけである。

それは欠点と自覚しているので理性で抑えるけれども

あくまでも抑制しているだけであり、

イライラを可笑しみや愛おしさに変えられるわけではない。


このイライラの内訳は、

相手に対してまじでイライラしてるのが1割くらいはあるけれども、

残り9割くらいが、子供の頃に経験したイライラの追体験であるように思う。


というのも物ごころづいてから持病や色々な事情で中学をドロップアウトするくらいまで、

学校で学ぶことは普通に日常生活を送っていれば自然と学び得ることばかりで

一々登校して必要以上に時間をかけたドヤ顔の講釈を聴く価値もよくわからず、

大人、ひいては教育の在り方みたいなものに対して

「ナメとんのか?」

というイライラを慢性的に抱えて少年時代を過ごしてきたのだ。


そのような背景があるからか、

少し考えればわかるであろうことを相手に一々説明するのは

相手の知能を自分より下だと軽んじているのであるから無礼である

という価値観が育ってしまった。


もちろん基礎知識は一々教える必要がある。

だが基礎的な知識さえあれば自ずと導ける知識、

というのがどの分野にだってあるだろう。

例えば相手は"7"という知識がないばかりに困っているとする。

そうしたときに、一般に良しとされる説明は、

「ああそれはね、"7"なんだよ」

「"1""2"なら"5"で、"3""4"なら"6"で、"5""6"なら"7"だからね」

みたいな、相手が欲しい答えを即答する方法か

逐一説明していくタイプの方法なのだろうけど、

これは[竹槍]の感覚では相手をナメくさったやり方であり無礼なのだ。

前者では"7"を導くために必須の"1""2""3""4"が結局わからないし、

後者だと相手が考えをさしはさむ余地を奪ってしまっている。

だから、良しと思うのは

「"1""2""3""4"だ。これを知っていれば自ずとわかるはず」


だけど、自分の想定よりも察しの悪い相手だとこれが裏切られる。

そして、ナメくさってて気に食わないはずの方法を

自分で実践しなくちゃならなくなる。

これこそ

幼いころにずっと感じてたあのイライラから学んだはずのことが覆される瞬間。

あのイライラは何だったのか?という虚無感にも似た更なるイライラと

対峙させられる瞬間なのだ。


だから、歪な形であれ、これも一種の敬意なのだ。

少なくとも相手が支配下を逸脱して自分を超えていくことを

[竹槍]は歓迎する。


「今が一番カワイイ」

と言ってる人たちの持つ、

相手の至らなさを受け止める余裕とか包容力みたいなものに憧れを抱きはすれども、

それは支配欲や優越への渇望と不可分なのかもしれない。

「カワイイ」相手への正しい対応が、未だわからない。





7回の閲覧