• 竹槍

追悼?

最終更新: 5月7日

最近急に大学時代の指導教官が夢に現れる日が続き、

どうも気になったので暑中見舞いでも出そうと思って

まだ在学されているかどうか調べたところ、

2017年に亡くなっていたことがわかった。

3年弱の年月が経っており、虫の知らせにしては随分遅い。


[竹槍]は元来人の死が悲しいという気持ちがさっぱりわからず、

幼いころから

例え親が死んでも何とも思わない気がするなあと思っていて

果たして親は4-5年前に亡くなったが

果たして何とも思わなかった。

親には感謝こそすれ恨みはなく

ひととなりはどちらかというと嫌いだったが、

その程度のすれ違いはどの家庭にもあろうという範疇だった。

それが、亡くなったときにあまりにも何の感情も湧かず、

少しは悲しそうにした方が良いのだろうか?

と、会社などでの振る舞いに悩んだものだ。


それらに比べると、人の死に対する感情の動きは今回が自分史上最大である。


彼は自由闊達な人だった。

服装や本棚や行動、どこを取っても

つまらない規範に囚われない自由さ、雄大さを見て取ることができた。


人は誰でも、食べていくために仕方なく

自分が本来持っている価値観を捻じ曲げて

世の中の規範に合わせねばならないようなことを

幾つも経験するはずだ。

動きにくくて気候にも合っていないスーツを、それでも着る

いつやってもいい仕事なのに出勤は1分の遅れも許されない

正しいとか面白いとか思ったことを飲み込み、

心にもないことを話す…


中国語では学歴のことを「文化程度」と表現するものだが、

これらのことから解放されるには未開の人になるほかあるまい。

(学歴に限らず普遍的な日本語としての)文化程度を数値化できるとして

ある地点までは、文化的であればあるほど

意思に反する規範にかかずらう頻度も増えていくように思う。

突き抜ければ自ら知識を吸収し・考え・判断できる賢い人ばかりになって

つまらない規範など必要なくなるのかもしれないが

そんな環境は例外としてノーカンにしても良いだろう。


ところが彼は「准教授」という極めて高い「文化程度」を持っていながら

それらのことから比較的解き放たれているように見えて、

こういう類の人が大手を振ってお天道様のもとを歩けるような世の中なら

きっとみんなもっと生きやすくなることだろうと

自身の価値観を殺してしまわず、堂々と生きられるようになるだろうと

そんな世の中であれかしと、心から思えるような人だった。


感情が動くトリガとなっているのは

そんな尊敬する師が亡くなった寂しさなどではなく、

もしかして彼は「大手を振ってお天道様のもとを歩」けなかったのでは?

という嫌な推測が頭をよぎることだ。

彼は少なくとも[竹槍]の在学中から

精神科か心療内科の、通院が必要な病気

に罹っており、通勤の困難から処遇が問われていたのは事実。

2016-17年、死の、長くとも一年前に一度会っているが

その時にも致死性の疾患を抱えているようには見えなかった。

生きていれば去年か今年で還暦くらいであり、寿命で死ぬ年齢でもない…

これらのことから想像できる死に方はあまり気持ちの良いものではなくて。


まあ、わからない。死因は調べてもわからない。

事故や急性の疾患でコロリと逝ったのかもしれないし。


ただ、そんな死にざまが想起されてしまうから、一層強く願うのだ。

もしも死後の世界があって

彼のような人が、望んだように暮らしていけるとしたら。


彼がそこに存在するかどうかは彼が決めることで

[竹槍]の意思の及ぶところではない。

けれども、彼のような人が生を謳歌できる世界はどこかにあってほしい。

それが少なからぬ人の希望になるだろうから。

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